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ヤマハと4輪モータースポーツ 全日本編 その2

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ヤマハが日本の4輪レースの最高峰を制するまでの軌跡

YAMAHA OX66_MCS7_ジェフ・リース
ヤマハOX66を搭載したMCS7を駆るジェフ・リース

画像の出典: mooncraft.jp

ヤマハの快進撃

ヤマハは86年の全日本F2でタイトルこそ奪えませんでしたが、シーズンランキングで3位と4位を獲得。富士グランチャンピオンシリーズ(通称GC)では、2度の1-2-3フィニッシュなどヤマハ勢が他を圧倒し、ジェフ・リースが見事チャンピオンに輝きました。富士GCでヤマハは、4輪モータースポーツにおいて初の栄冠を手にしたのです。

富士GCとは?

GCは1971年から1989年まで開催されていたレースシリーズです。1987年までは富士スピードウェイのみで開催されていました。当初は2座席のスポーツプロトタイプで行われていましたが、80年以降はアメリカのCAN-ANシリーズに倣い、前年に全日本F2で使われたシャシーにカウルをかぶせたシングルシーターによって、シリーズが競われるようになりました。

GCタイトルの意義

GCにはホンダがエンジン供給しておらず、ライバルは長年使われてきたBMW・M12エンジンだけでしたが、国内のフォーミュラカーレースにおいてヤマハがホンダに次ぐ地位にあることを証明したという点で、ヤマハのGCタイトル獲得は大きな意味を持つものでした。次に狙うのは当然、国内トップフォーミュラのタイトルです。

立ち込める暗雲

しかし87年の全日本F3000開幕戦に、ヤマハエンジンの姿はありませんでした。正確なことはわかりませんが、もしかしたら日本自動車連盟(JAF)と主催者側の対立が影響していたのかもしれません。

F2を継続させたかったJAF

JAFの考えでは、87年まではF2として開催し、F3000は条件付きで出走を認める計画でした。しかし主催者やエントラント側は反発し、開幕戦には全チームがF3000でエントリーしてきました。ヤマハ側はJAFの見解を大真面目に受け取り、88年の開幕に合わせてF3000用のV8を開発していた可能性があります。ともかくヤマハは、87年開幕戦にV8を用意できなかったのです。

鈴木亜久里の登場

フットワーク88D_鈴木亜久里
鈴木亜久里の操るフットワーク88Dヤマハ

画像の出典:global.yamaha-motor.com

87年のホンダ陣営

ホンダは星野一義、ジェフ・リース、高橋国光、鈴木利男にエンジンを供給することで、中嶋が抜けた穴を埋めました。他のチームが使うコスワースDFVでは彼らに歯が立たず、ホンダ陣営に第1戦から6連勝を許してしまいます。星野は6戦中4勝し、タイトル争いを優位に進めていました。

脅威の新人

日本で2番目に速い男

圧倒的な速さの星野に食らいついていけたのは、86年最終戦で国内トップフォーミュラにデビューしたばかりの、鈴木亜久里だけでした。コスワースDFV勢で、ホンダ勢に割って入る活躍を見せていたのは彼一人だけです。第5戦終了時点で亜久里は、星野に次ぐランキング2位につけていました。

バブルマネー

亜久里の好調を支えていたのは、運送会社「フットワーク」の資金でした。バブル景気に湧いていた日本では、折しものF1ブームも手伝い、モータースポーツに参入する企業が続々と現れていました。JTのような巨大企業と並び立つことのできるモータースポーツの世界は、フットワークやレイトンハウスなどの新興企業にとって魅力的だったのです。

ヤマハ、翼を授ける。

ヤマハはコスワースDFVに独自開発した5バルブヘッドを搭載した「OX77」を開発、第6戦から亜久里とヤン・ラマースに供給を開始します。そして第7戦でヤン・ラマースが勝利し、ヤマハ復活の狼煙を上げます。

亜久里は第8・9戦と連勝しますが、第6・7戦のリタイアが響き、星野には一歩及びませんでした。

しかし翌88年は、ポール・トゥ・ウィンと2位をそれぞれ3回ずつ獲得、有効ポイント差で星野を下し、亜久里は見事全日本F3000タイトルを獲得します。ついにヤマハは、国内4輪レースの最高峰を制したのです。

第7戦での星野と亜久里のバトル

世界へ

ヤマハは、亜久里とともに89年のF1にフル参戦することを発表します。日本のエンジンサプライヤーとしては、ホンダに続いて2社目ということになります。

87年からF1に参入していたレイトンハウスは、88年シーズンに3度の表彰台を獲得するなど、大きな飛躍を遂げていました。後にF1に参入するエスポやフットワーク、ミドルブリッジなどの先駆けとなったといえるでしょう。

バブルに浮かれ、みなが世界を目指していました。日本ではないどこかに行こうとしていたのです。それは日本のモータースポーツが空洞化する前触れだったのかもしれません。

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