ヤマハと4輪モータースポーツ 全日本編 その1
ヤマハと4輪の関係史
ヤマハが東京モーターショーにスポーツカーのコンセプトモデルを出典するそうです。
ヤマハ 東京モーターショー スポーツカーのデザイン・コンセプトモデルを出展 – AutoProve
ヤマハが関わった4輪というとトヨタ2000GTが有名ですが、TA22セリカに搭載されていた2T-Gエンジンのシリンダーヘッドもヤマハ製です。
2T-Gエンジンはフォーミュラ・パシフィック(F3の前身)やF3で大成功を収めます。そのことに触発されたのかどうかはわかりませんが、ヤマハは85年から全日本F2(F3000の前身。後にフォーミュラ・ニッポン→スーパーフォーミュラへと続く。)に参戦を開始します。そして1985年の9月末に行われた「鈴鹿グレート2&4レース」でヤマハユーザーのジェフ・リースが3位表彰台に立ち、初年度にして早くも結果を残しました。
フォーミュラカーでもYH戦争
80年代半ばの全日本F2では、中嶋悟+ホンダエンジン+ブリヂストンタイヤ+ヒーローズレーシングのパッケージが圧倒的で、大半のレースを支配していました。
中嶋のライバルである星野一義は、83年にヒーローズレーシングから独立してホシノレーシングを設立。しかし83年、84年とBMWエンジンのパワー不足に苦しみ、中嶋の後塵を拝していました。
85年になってホンダが星野にエンジン供給を開始したのは、もしかしたらヤマハが「日本一速い男」にエンジン供給することを恐れたからかもしれません。ヤマハは初年度に幸先良く表彰台を獲得しましたが、翌86年には中嶋と星野を擁するホンダをやっつけて優勝するという、途方も無い難題に挑まなければなりませんでした。
酒と煙草と松本恵二
86年になるとヤマハは供給数を一気に拡大、ホンダとの全面戦争に突入します。ヤマハのドライバーラインナップは、ヨーロッパF2チャンピオンのジェフ・リース、そのリースとヨーロッパ時代からしのぎを削るスウェーデンのエイエ・エリジュ、80年全日本F2チャンピオンの長谷見昌弘、この年からレイトンハウスカラーで走ることになった萩原光など錚々たるメンツでした。
しかしヤマハ勢の中で最も注目を浴びていたのは、松本恵二でした。79年全日本F2チャンプ、83年の富士GCチャンプという実力もさることながら、鮮やかなCABINカラーのレーシングスーツを身にまとって登場した伊達男に、日本中の視線が集まっていました。
降って湧いた「タバコマネー」
85年4月1日に設立された日本たばこ産業(JT)は、86年2月に日本のモータースポーツに大規模な支援を行うことを発表しました。JTが松本に用意した契約金は2億円と言われています。85年末には海外ロケにてCM撮影を済ませており、初戦となる86年全日本F2第1戦「鈴鹿BIG2&4レース」にも、大量のプロモーション要員をサーキットへと送り込んでいました。
デビューウィンの鮮烈なインパクト
松本は期待に答え、CABINレーシングとしての初戦で優勝します。この勝利はCABINレーシングだけでなく、ヤマハにとっても全日本F2での初めての勝利となりました。
第2戦でジェフ・リースが、第3戦では再び松本が勝利し、ヤマハ勢は3連勝を飾ります。しかし中嶋と星野、そして若き天才マイク・サックウェルまでをも擁するホンダの壁は厚く、全日本F2のタイトルは中嶋に、鈴鹿F2のタイトルは星野に、それぞれ奪われてしまいます。
86年限りでF2が終わり、中嶋もF1へとステップアップするため日本を去りました。ひとつの時代が終わり、ヤマハの戦いも新たな局面を迎えます。
2015年5月17日、松本恵二さんがお亡くなりになられました。故人のご功績を偲び、謹んで哀悼の意を表します。