ドリフトキング土屋圭市物語② 出世よりも意地とプライド

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この記事は、

ドリフトキング土屋圭市物語① 格差社会にいきなりの挫折!

からの続きとなります。

プロドライバーにはなったものの……

85年、土屋圭市は富士フレッシュマンレースへの参戦を続けながら、アドバンワークスの一角として全日本ツーリングカー選手権(JTC)への参戦を開始します。

アドバンカローラレビン。画像のドライバーは鈴木恵一。

チームはつちやエンジニアリング、チームメイトはベテラン鈴木恵一(96年と98年のGT300チャンピオン。現在はGT300のチームKTR代表)という陣容でした。カーナンバーはつちやエンジニアリングのパーマネントナンバーと言ってもよい「25」です。


プロの洗礼

しかし昨年までの快進撃とは打って変わって、この年の土屋はマシンの信頼性の低さから完走すらままならず、リタイアを繰り返します。

勝手知ったる富士フレッシュマンでも、サニーがほとんどを占めるクラスに競争力で劣るスターレットでの参戦となり、思うに任せません。

土屋圭市のプロ1年目は、参戦した12戦中7回のリタイアという惨憺たる結果に終わりました。12月のインターテックでのクラス優勝が無ければ、その後のキャリアも危うかったかもしれません。

ドリフト禁止令

苦戦するドリフトキングに、つちやエンジニアリング代表・土屋春雄が突きつけたのは「ドリフトの禁止」でした。

しかし土屋圭市はこれに反発、ようやく手に入れたアドバンワークスのシートを、たった1年で放り出してしまいます。ドリフトで手に入れたシートを、ドリフトで失うことになったのです。

一匹狼のプライベーター

アドバンのパーソナルスポンサー契約は維持されたので、86年以降、土屋圭市はプライベーターとして活動することになります。

活躍の場は、スターレットやカローラ/スプリンター、ミラージュなどのワンメイクレースが主でしたが、当時は好景気だったこともあり参戦台数が多く、どのシリーズも激戦でした。

ワンメイクレースで安定して上位に食い込んでいた土屋は、相変わらずの人気者でした。そんな彼をメディアが放っておくはずがありません。

自動車メディアの寵児

峠の走り屋出身ということもあり自動車関連の雑誌に度々登場するようになった土屋は、あれよあれよという間に連載を7本も抱える売れっ子になりました。次代のスターとして注目を浴びるようになったのです。

そんな土屋の人気にあやかり、87年にあるビデオが製作されます。問題作「ザ・峠」です


ライセンス剥奪危機

当時は暴走族が社会問題となっており、中でも富士グランチャンピオンレース(通称、富士GC)開催時に集結する「グラチャン族」のせいで、富士スピードウェイの存続すら危ぶまれていた時代です。

そんなモータースポーツへの風当たりが強い時期に、現役のプロドライバーが峠でドリフトするビデオが発売され、しかもそれが人気を博してしまったのですから、制作側と土屋へ非難が集中します。

ビデオは発売元が販売を自粛、土屋もライセンス永久剥奪の危機に陥ります。

しかし稲田大二郎(当時はチューニング雑誌optionの編集長)を中心に複数の雑誌社が団結して土屋の処分軽減を嘆願したことが功を奏し、土屋の処分は「以後は峠で走らない」という旨の誓約書を提出するだけで済まされました。

ドリフトにこだわりシートを失い、峠にこだわりライセンスを失いかけた土屋圭市。追い詰められた彼を再びスターダムに押し上げたのは、やはり彼自身のドライビングテクニックでした。

全日本のトップドライバーへ

87年から全日本ツーリングカー選手権(JTC)にほぼフル参戦していた土屋でしたが、88年になるとDivision2のBMW M3で実力を発揮し始め、6戦してクラス3位を3回獲得するという好成績を残します。

新型C53Aに切り替わったミラージュカップでも活躍し、横島久に次ぐシリーズ2位を獲得。マカオGPの併催レースであるジャッキー・チェン・トロフィー(ミラージュのワンメイク)でも4位入賞(優勝は津々見友彦)を果たすなど、88年は土屋にとって飛躍の年となりました。

土屋圭市のドライブするサンスイ・ミラージュ

画像の出典: ralliart.co.jp


鉄人・土屋圭市

翌89年、土屋はJTC、全日本F3、カローラ/スプリンターグループAカップ、ミラージュカップと4つのカテゴリーに参戦します。「1週間に10日走って腕を磨く」スタイルは、峠のハコスカ時代と何ら変わっていないことがわかります。

この年、土屋は計23レースにエントリーし、3勝・2位4回・3位4回・入賞(4~6位)5回という成績を収めます。プライベーターがエントリーしたレースの2/3で入賞するというのは驚異的です。

立ちはだかる壁

90年、JTCでの初優勝を求めてチームを移籍した土屋圭市は、和田孝夫とコンビでシエラRS500を駆ることになりました。ドライバーラインナップとしてはこれ以上ない布陣です。

しかしデビューイヤーのBNR32GT-Rに、土屋の夢はもろくも打ち砕かれました。GT-Rは全戦全勝でJTCを完全制覇し、土屋・和田組は4位1回・6位2回と表彰台にすら昇れませんでした。

とは言え、この年から参戦を始めたジャパン・スーパースポーツ・セダンレース(JSS)では、3勝を上げるなど奮闘します。

その甲斐あってか土屋は翌91年のJTCに、最強マシンGT-Rで参戦するチャンスを手に入れます。

更新履歴

記事初出時の間違いを訂正しました。(2016/01/10)

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ドリフトキング土屋圭市物語③ GT-Rに夢を乗せて