レイトンハウスとは何だったのか その1
古いレーシングカーがモンツァ・サーキットを走るイベントを見ていたら、レイトンハウス・ポルシェ962Cや、フロムA・日産R91CKが出てきて驚きました。
日本のレース史の1ページを飾ったマシンたちが国外に流出しているのは残念ですが、元気に走っている姿が見られるのは嬉しいものです。
フロムAはリクルート社の求人情報誌なので、グループCのようなトップカテゴリーのスポンサーでも何ら不思議はありません。ではレイトンハウスは? 「実態がよくわからない謎の会社」というのが、大半の人が抱く率直な印象ではないでしょうか。
ホンダ・シティのマイアミブルーを参考にしたという「レイトンハウスブルー」は、モータースポーツ好きにはお馴染みの色ですが、その事業実態や歴史、そしてモータースポーツとの関わりについては、Wikipediaにも断片的なことしかかかれていません。
そこで何回かに分けて、レイトンハウスの歴史について書いてみることにしました。(文中敬称略)
二人の"アキラ"
レイトンハウスは丸晶興産という会社のブランドでした。その丸晶興産は、赤城明という人物が1981年に立ち上げた不動産会社です。
赤城明
赤城の父も不動産業を営んでいたそうですが、丸晶興産はその父の会社ではなく、勘当同然で家を追い出された赤城が自ら設立したそうです。もっともそれは赤城自身の言ですから、真実かどうかはわかりませんが。
そんな丸晶興産は、折からの好景気を追い風に事業を拡大。オフィスビルやゴルフ場などを経営し、業績は好調だったようです。
当時は「土地神話」が根強く、「土地は買えば必ず値上がりする」と言われていました。
このころの不動産業の基本的なビジネスモデルは、①銀行から土地を担保にお金を借りる→②そのお金で新たに土地を買う→③新たに買った土地を担保にまたお金を借りる、というもので、雪だるま式に資産を増やすサイクルになっていたのです。
土地が値上がりし続けるという「土地神話」と、土地を担保に差し出せばいくらでもお金を貸してくれる銀行とが合わさって、不動産の価格は需要以上に高騰していきました。赤城はその波に乗り巨万の富を築き始めていた、青年実業家だったのです。
萩原光
1956年生まれの萩原光(はぎわら・あきら)は小田原出身で、箱根を走る街道レーサーでした。彼がレースデビューしたのは21歳の誕生日直前でしたから、比較的遅咲きといえるでしょう。
レースデビュー後に萩原は、高橋健二に連れられ星野一義宅を訪れています。それを機に、星野と師弟関係を結んだようです。もっとも、一定レベルより上のドライビングテクニックは教えられて身につくものではないので、「盗め」というのが星野の指導方針だったようですが。以下が星野の萩原評です。
萩原は78年からTSマイナーツーリングにエントリー。「トリイサニー」を駆り、キャリアを積んでいきます。トリイレーシングは後に強豪チームとなりますが、萩原がデビューした頃にどれほど競争力があったかはわかりません。
何にせよ萩原は着実に成長していたようで、デビューから2年後には、激戦のマイナーツーリングで表彰台に上るまでになっていました。
その甲斐あってか、翌80年からはF3にフルエントリー。デビューイヤーに表彰台を2回を獲得すると、翌81年には3勝・2位3回、ランキング2位という抜群の成績を上げ、82年からは全日本F2選手権にステップアップ。萩原はレースデビューからわずか5年で、日本のトップカテゴリーへと上り詰めたのです。
レイトンハウス誕生
赤城と萩原が知り合ったのは83年のことでした。「スポンサーを獲得すべく、萩原のマネージャーだった弟・任(まこと)と丸晶興産に飛び込み営業をかけ、そこで赤城と知り合った」という説と、「知り合いを通じてスポンサーの依頼に来た」説があるのですが、ともかくこの年に知り合ったのは事実です。
期待の若手ドライバーとしてスターダムに駆け上がった萩原と、売り出し中の青年実業家だった赤城は、相通じるものがあったのかもしれません。スポンサー契約がまとまり、萩原は84年の富士GC最終戦に「丸晶興産」のロゴを付けたマシンでエントリーします。
このカラーリングに丸晶興産社内から「レーシングカーに漢字は似合わない」と指摘された赤城は、代わりに「LEYTON HOUSE」のロゴを用い始めます。
レイトンはイギリスの小さな街の名前だそうで、赤城の知人の娘がイギリス留学中に知ったのだそうです。メーベル商会の女性社員が、それに家=HOUSEを組み合わせたのでした。
LEYTON HOUSEのロゴが初めて貼られたマシンは、85年のル・マン24時間レースに挑んだ「#36 TOM’S 85C」です。
宣伝する商品が無いのにスポンサードするなんて、なんともバブルらしい逸話ですね。
若手No.1
85年、萩原は目覚ましい活躍を見せます。富士GCでは自身2度目となる表彰台を獲得。富士GCのノン・チャンピオンシップ戦である「東北グランチャンピオンレース」では、スポーツランド菅生(国際コースになる前は菅生表記)のコースレコードを樹立し、ポールポジションを獲得しました(決勝は師匠・星野に次ぐ2位)。
F2も4位2回・5位1回・7位3回などコンスタントにポイントを獲得し、ランキング7位でシーズンを終えました。イマイチな成績に見えるかもしれませんが、当時のF2は中嶋悟、星野一義、松本恵二、長谷見昌弘らのチャンピオン経験者に加え、高橋健二、高橋国光、ケネス・アチソンらのADVANワークス艦隊がひしめき合っていましたから、ランキング7位は殊勲賞ものだったのです。
85年は、萩原が彼らに次ぐ実力を持つことを自らの力で証明したシーズンでした。若手No.1の地位を確固たるものにしたのです。
レイトンハウス・レーシング
86年、赤城は「レイトンハウス・レーシング」を立ち上げます。萩原をエースに据えたチームです。
しかし開幕前の話題といえば、日本たばこ産業(JT)が立ち上げた「CABINレーシング」でもちきりでした。なにせ記者会見には、350人もの報道関係者が詰めかけたほどです。
エースドライバーに抜擢された松本恵二はCABINのCMにも起用され、一躍時の人となりました。
ホンダF1の活躍、中嶋悟の国際F3000挑戦などと合わせて話題を呼び、日本のモータースポーツは一気にメジャーな存在となったのです。
CABINレーシングと比べれば、レイトンハウスに対する世間の注目度は低かったといえます。しかし鮮やかなカラーリングはどの車よりも目立っていましたし、資金面を含むチーム体制は万全でしたから、あとは萩原が活躍すればよいだけでした。
予想外の不振
ところが開幕直後から、チームは予想外の不振に陥ってしまいます。
シーズン開幕戦のF2全日本BIG2&4レース(86/03/08)は、トラブルで12周目にピットインし、そのままリタイア。
全日本ツーリングカー選手権開幕戦西日本サーキット(86/03/23)では、チームメイトの黒沢元治が走行中にメルセデス・ベンツ190E-2.3-16のタイミングベルトが切れ、萩原は乗らずじまい。
この年からスプリントになった富士GC開幕戦・富士スーパースピードレース(86/03/29)でも10周リタイアと、満を持して立ち上げたチームにもかかわらず、3月は全戦リタイアに終わってしまったのです。
レイトンハウスのマシンではありませんが、インターナショナル鈴鹿500km自動車レース(86/04/05)では、フリー走行中に萩原が乗る日産R86V・ニチラが発火。予選を走れなくなってしまいます。
立て続けに起こる不運の連続に師匠の星野は「いっぺん神社に行った方が……」と、萩原の身を案じていたそうです。
菅生での悲劇
グループC耐久に出られなくなった萩原は、当初参加する予定の無かったツーリングカーのテストに出るべく、スポーツランド菅生に向かいました。
菅生でレイトンハウス・レーシングのスタッフと合流したあと、黒沢の到着を待ってからテストを開始。レイトンハウスカラーのメルセデス・ベンツ190Eは、開幕戦で走った本番車と、新たに購入した新車の2台があったそうですが、萩原は新車を選びコースイン。黒沢もそれに続きます。
黒沢の本番車はギアレシオとスプリングがコースに合っておらず、数周でピットイン。しかしパーツが無く、セットアップ作業は中断してしまいます。
「部品が届くまでの間(ベンツをサーキットで)乗ってきたい」と名乗り出たのは、赤城でした。もちろん彼は素人ですが、レーシングカーというものを体験したかったのでしょう。黒沢は注意点を伝え、赤城を送り出しました。
萩原の走りは好調で、ライバルのスカイラインを抑え、テール・トゥー・ノーズで周回を重ねていました。タイムを上げ、徐々にスカイラインを引き離していった萩原でしたが、2コーナーでコースアウト。山肌に激突した彼のベンツは炎上してしまいます。当時の菅生はインフィールドのない高速コースでしたから、2コーナーのスピードは相当なものだったはずです。
血相を変えてピットに戻ってきた赤城のベンツに、黒沢とメカニックは消火器を抱えて飛び乗り、現場へと急行しました。しかし燃え盛る火の勢いは凄まじく、車内に取り残された萩原の姿を、ただ見守ることしかできなかったのです。
萩原を失った赤城は、レース活動を続けるかどうか苦悩します。しかし萩原の両親からの希望で、活動継続を決意するのです。
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