ドリフトキング土屋圭市物語③ GT-Rに夢を乗せて

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この記事は、

ドリフトキング土屋圭市物語① 格差社会にいきなりの挫折!

ドリフトキング土屋圭市物語② 出世よりも意地とプライド

の続編となります。

最強のGT-Rを手に入れて

1991年、強豪プライベーターのタイサンと契約した土屋圭市は、フォード・シエラではどうしても勝てなかったグループA最強マシン・BNR32スカイラインGT-Rのステアリングを、自身で握ることとなりました。

土屋圭市のドライブするタイサンKLEPPER GT-R

この時、土屋は35歳。ドライバーとしても円熟期を迎え、乗るのは高橋国光の走りを見て以来、憧れだったGT-R。チームメイトは大ベテランの高橋健二(85・86年のJSPCチャンピオン)。ハコの日本一になる準備は整ったと、ファンだけでなく土屋自身もそう思ったはずです。


万全の体制

91年、土屋はJTC、F3、JSSと3つのカテゴリーにエントリーします。体制は以下の通りです。

91年の土屋圭市参戦体制

カテゴリー チーム名 マシン タイヤ
JTC タイサン スカイラインGT-R(Gr.A) YH
F3 5ZIGEN ラルトRT35 無限MF204 BS
JSS RSファイン RX-7(FC3S) YH

N1耐久にも2度スポット参戦しているが割愛

頂点への道のりは……

JSS

90年のJSSではぶっちぎりでシリーズチャンピオンになった土屋でしたが、91年はのっけから4位と躓いてしまいます。この年からJSSへのエントリーを開始したR31スカイラインが、FC3Sを圧倒する速さを見せたためです。

結局この年のJSSでの土屋の勝利は、豪雨の最終戦で上げた1勝にとどまりました。しかしその勝利はドリフトキングの名にふさわしい見事なものでした。以下の動画をぜひご覧ください。


JTC

勝てるマシンを手にしたと思われたJTCでしたが、ホシノインパルのカルソニック・スカイライン、ハセミモータースポーツのリーボック・スカイラインの2台とは、歴然としたスピード差がありました。

土屋圭市/高橋健二組は2位と3位をそれぞれ2回ずつ獲得しましたが、いずれのレースもカルソニックもしくはリーボックに1分以上の大差をつけられての表彰台であり、内容はまさしく惨敗でした。

F3

土屋にとってF3で4年目となるシーズンでしたが、2位1回・入賞2回にとどまりました。チームメイトの西垣内正義(F3は3年目)が2位1回・3位1回を獲得しているのと比べると、土屋の結果はやや物足らない印象です。

万全と思われた体制がほころびを見せ、土屋が91年に上げた勝利はJSSの1勝のみに終わりました。

憧れの人とチームメイトに

翌92年、JTCでの土屋のチームメイトは、あの高橋国光(4度のJSPCチャンピオン)です。

自身がレースへと進むきっかけとなった人物とチームメイトとなった土屋は、今まで以上に気迫をみなぎらせ、闘争心むき出しの走りで観客を沸かせました。下にある動画の92年JTC第3戦SUGOは、その典型例と言えます。


しかし92年も、土屋はJTCで勝つことができませんでした

JTCではインパルとハセミの独占体制が崩れ、共石スカイライン(ニスモ)やAXIAスカイライン(オブジェクトT、トーヨータイヤのワークスチーム)が勝利を上げるなど、タイサンにもチャンスがあったシーズンでしたが、2位1回・3位2回に終わりました。

さらに土屋にとって深刻だったのは、JTC以外のレースでも勝てなかったことです。JSSでは元グループAの車両を持ち込んだR31軍団に手も足も出ず、92年からフル参戦を始めたN1耐久(5ZIGEN CIVIC)でもクラス優勝できず、F3では入賞すらありませんでした

レース界の厳しい掟

土屋がシーズンを未勝利で終えるのは、実に86年以来のことです。ただし86年は土屋がアドバンワークスのシートを蹴ってプライベート参戦していた年なので、ある意味仕方がないと言えます。

しかし92年の土屋は押しも押されぬトップドライバーですから、勝てないことはシートの喪失に直結します。土屋はこの年限りでF3のシートを失い、その後フォーミュラカーレースに参戦することは2度とありませんでした。

最後まで読んでいただきありがとうございます。以下の記事もぜひご覧ください。