モータースポーツにおける因縁・遺恨・報復 WRC編
事故なのか故意なのか
昨日行われたF1ロシアGPでは、前戦中国GPにつづいてクビアトがベッテルに再び接触し、8台を巻き込む大クラッシュの引き金を引いてしまいました。
2戦連続でクビアトにリタイアさせられたベッテルもさすがに我慢の限界のようで、記者会見で「彼(クビアト)は2週間前にもミスしたのに、また同じミスをした」と怒りを露わにしています。
クビアトとベッテルの間に因縁が勃発するかはわかりませんが、モータースポーツでは熾烈なバトルが感情的な対立に発展し、コース上での報復行為に及んだ他にも例もあります。今回はWRCで発生した因縁や遺恨・報復行為についてです。
トップ画像の出典: wrc.com
目次
エル・マタドール カルロス・サインツ
1990年と92年のWRCチャンピオンであるカルロス・サインツは、自身のスポンサー(レプソル)とトヨタが93年から新たに契約したスポンサー(カストロール)のバッティングする問題から、93年はプライベート・チームのジョリークラブ(当時はランチア・デルタを使用)からエントリーしていました。
しかしサインツ自身が「ワークスチーム以外の選択は2度としない」と述懐するほど、93年の成績は低迷。94年からはスバルに移籍します。
新星 コリン・マクレー
サインツが移籍した当時、スバルには26歳の若手ドライバーコリン・マクレーが在籍していました。
スバル・レガシィを何度も何度も何度も横転させてきた彼ですが、スピードは天下一品で、93年のニュージーランドではWRC初優勝を達成。故郷スコットランドはもとより、ラリー界期待の若手として注目を集めていました。
1995年WRC
脂の乗り切ったチャンピオンと、勝利に飢えた若獅子が、グループAラリーカーとして理想的なパッケージングを持つインプレッサを手に入れれば、その2人がタイトル争いをするに決まっています。
95年、サインツはトレーニング中に右肩靭帯を損傷し、ラリー・ニュージランド欠場を余儀なくされます。当時のWRCは全8戦で行われていたので、この1戦欠場がチャンピオンシップに大きく影響しました。
マクレーはサインツの欠場したニュージランドで優勝すると、次のオーストラリアではリタイアしたサインツを尻目に2位に入り、ニュージランド前には30ポイントもあったサインツと差を一気に逆転。ランキングでもユハ・カンクネン(トヨタ, 62ポイント)に次ぐ2位に躍進します。
逆にサインツは50ポイントのまま2戦も足踏みしてしまい、ランキングではディディエ・オリオール(トヨタ, 51ポイント)に抜かれて4位に転落してしまいました。
運命のカタルニア
序盤はカンクネン、サインツが秒差の争いを繰り広げ、マクレーはアルミン・シュバルツ(トヨタ)やオリオールと3位争いをする展開となりました。スバルとトヨタががっぷり四つに組み合った格好です。
その後シュバルツ、カンクネンが脱落し、サインツとマクレーが1-2体制となりました。3日目スタート時、スバル2台のタイム差は8秒。スバルワールドラリーチームを率いるデビッド・リチャーズは、当然のごとくチームオーダーを発令します。
ところが2位マクレーは最速タイムを連発し、ついにはサインツを追い抜いてしまいました。
これはチームオーダーに不満だったマクレーによる報復行為でした。約束破りにサインツは話が違うと抗議し、リチャーズもマクレーに順位を戻すよう諭します。
結局マクレーはチームオーダーに従い、カタルニア・ラリーはサインツが優勝しました。しかし約束破りは遺恨となり、サインツは翌年フォード移籍してしまいます。
トヨタのスキャンダルでマクレーはチャンピオンに
このカタルニア・ラリー終了後、トヨタのST205セリカGT-FOURのリストリクターに不正が発覚します。オリオール、シュバルツ、そしてランキングトップのカンクネンは、チャンピオンシップポイントを剥奪されました。
これでタイトル争いはスバルの2台に絞られ、最終戦RAC(グレートブリテン)で勝利したマクレーが、自身初のタイトルを獲得します。波乱の1995年を征するのにふさわしいドライバーがチャンピオンに輝いたと言えるでしょう。
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