ワールドタイトルは幸せを約束してくれない

F1,モータースポーツ

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今年のF1ワールドチャンピオン、ニコ・ロズベルグ選手が、F1からの引退を発表しました。
どうやらメディアも事前に知らされてなかったようで、F1界に衝撃が広がっています。

引退理由は「家族のため」ということですが、額面通りには受け取れません。
というのも、過去にはワールドチャンピオンを取ったのにチームから追い出されたドライバーがいるからです。

ニコの引退についても思うところがあるので、今回は「ワールドチャンピオンを獲得したのに、その後不遇だったドライバー」について書いてみたいと思います。


マイク・ホーソーンの場合

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1958年のモナコGP。フェラーリを駆るホーソーン。

画像の出典: f1-history.deviantart.com

マイク・ホーソーンはフェラーリのドライバーとして、1958年にワールドチャンピオンになりました。
タイトル争いの相手は、ヴァンウォールを駆る「無冠の帝王」スターリング・モス。
58年もモスが4勝、ホーソーンは1勝だったのに、タイトルを獲得したのはホーソーンの方でした。

しかしホーソーンはタイトル獲得のわずか2ヶ月後に、F1からの引退を発表します。
引退の理由については、「結婚した男はレースに出るべきではない」という哲学を持っていたからだという説、持病の肝臓病が悪化した説、チームメイトの事故死が引き金となった説など様々ですが、正確なところはわかりません。

なぜ引退理由が不明なままかと言うと、彼は引退して3ヶ月後に交通事故に遭い、還らぬ人となってしまったからです。

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ジョディ・シェクターの場合

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ティレルP34に初勝利をもたらしたのもシェクターだった。

画像の出典: bleacherreport.com

ジョディ・シェクターは、1979年にフェラーリでタイトルを獲得した人物です。
次にフェラーリがドライバーズ・タイトルを獲得したのは2000年(ミハエル・シューマッハーの手による)なので、フェラーリが長期の不振に陥っていた時代には、シェクターの名前が「フェラーリ最後のF1ワールドチャンピオン」として、よく引き合いに出されていたものです。

シェクターはジル・ヴィルヌーヴとともに1979年のグランプリを席巻、ダブルタイトルを獲得しました。

しかし翌80年のフェラーリ312T5は駄作で、コンストラクターズランキングは10位と低迷。
この年には予選落ちまで喫したシェクターは、フェラーリ首脳陣と対立。
ほとほと愛想が尽きたのでしょう、そのまま彼はF1から引退してしまいました。

翌81年にフェラーリに加入したハーベイ・ポスルスウェイト博士は、312T5を「中世の馬蹄師が作ったようなシャシー」と酷評しています。
つまりフェラーリの低迷は、シェクターの責任ではなかったのです。

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デイモン・ヒルの場合

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歓喜のチェッカーの先に待っていたのは……。

画像の出典: motorsportm8.com

1996年にウィリアムズ・ルノーを駆ってタイトルを獲得したヒルも、ロズベルグと同じくワールドチャンピオンの父(グレアム・ヒル)を持ちます。

96年はアメリカのCARTを制したジャック・ヴィルヌーヴ(ジル・ヴィルヌーヴの息子)が、鳴り物入りでウィリアムズからF1デビューした年です。
エイドリアン・ニューウェイのデザインしたFW16に匹敵するマシンが他になかったため、タイトル争いは必然的にウィリアムズの2人に絞られました。
2世ドライバー対決となったのです。

アイルトン・セナ亡き後ウィリアムズのエースとして戦ってきたヒルは、序盤戦こそヴィルヌーヴに対し貫禄の違いを見せつけますが、後半戦はF1に慣れてきたヴィルヌーヴに追い上げられ、決着は最終戦の鈴鹿・日本GPにもつれ込むことに。

ポールポジションはヴィルヌーヴ、しかしヒルは2番グリッドからロケットスタートでホールショットを決めると、首位を譲ること無くそのままトップチェッカー。
親子2代でのワールドタイトル獲得と偉業を、ついに成し遂げたのです。

しかしウィリアムズは非情でした。
ヒルが36歳とF1ドライバーとしては高齢だったこと、BMW(ルノーは97年限りで一時F1撤退)と契約するためにドイツ人ドライバーが必要だったことなどから、ヒルはチームを追われることとなったのです。

その後アロウズ・ヤマハやジョーダン・無限ホンダで活躍しましたが、タイトル争いに絡むことはなく、99年をもってF1から引退しました。

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ミハエル・シューマッハーの場合

7度もワールドタイトルを獲得した(うち5回はフェラーリ)ミハエル・シューマッハーでしたが、そんな功労者に対するフェラーリの仕打ちは酷いものでした。

たしかに2005年は1勝しかできずフェルナンド・アロンソに玉座を明け渡してしまいましたし、2006年の序盤戦も精彩を欠いていましたが、第14戦トルコGP終了時点ではアロンソ108ポイント、対するシューマッハーは96ポイントと、一時は25ポイント差あった二人の差は急速に縮まっていたのです。

しかし第15戦イタリアGP終了後の会見で、ミハエル・シューマッハーはF1引退を発表しました。
原因はフェラーリの悪しき伝統、お家騒動だと言われています。

2000年以降のフェラーリは勝ちまくっていましたが、内部には対立の火種がくすぶっていたようです。
フェラーリのルカ・モンテゼモロ会長(当時)と、現場を一手に取り仕切るジャン・トッド(当時、現在はFIA会長)とが、水面下で対立していたと言われています。
イタリア派閥と外国人派閥の争いと言い換えることもできるでしょう。

モンテゼモロは「イタリアGPが最終期限」だとシューマッハーに通告しており、「2007年にキミ・ライコネンをチームメイトに迎えるか、引退するか」の2択を迫っていました。つまりジョイント・ナンバーワン体制への変更です。
一方、シューマッハーのナンバーワン体制で勝利を重ねてきたジャン・トッドにとっては、モンテゼモロのやり方は受け入れ難いものでした。

また、シューマッハーの高額な年俸(年間4500万ドル)もモンテゼモロの槍玉に上げられ、かなりの減額を言い渡されていたようです。翌年フェラーリと契約したライコネンの年俸は2650万ユーロだったので、もしシューマッハーがフェラーリに残るとすれば、年俸の減額は避けられなかったでしょう。
そこまでする価値は無いと思ったシューマッハーは、一度目の引退を決断したのです。

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ニコ・ロズベルグF1引退の真相は?

ニコ・ロズベルグ本人のコメントによると、「この決定を下した唯一の理由は、僕のレースが家族を厳しい状況に置いているということ」が、F1引退の理由だそうです。
マイク・ホーソーンのパターンに近いと言えますね。

しかし本当に本人の意志による引退なのかは、正直疑問が残ります
デイモン・ヒルやジョディ・シェクターのように、ワールドチャンピオンを獲得したにも関わらずシートを奪われたり、チームと対立して引退した例もあるからです。

メルセデスには優れた若手ドライバー(パスカル・ウェーレインエステバン・オコン)がいますから、メルセデス側が「チャンピオン獲得を花道に若手と交代」という筋書きを考えていた可能性もあると思います。

ニコの年俸は1500万ドルですが、タイトルを獲得したからには年俸の引き上げは不可避です。
しかもニコの契約は今年までですから、メルセデス側がニコとの契約更新よりも、有望な若手にシートを与えるのを優先しても、何ら不思議はありません
それらの状況に嫌気がさしたニコが、ジョディ・シェクターのように引退を決断したとすれば……辻褄は合います。

ちなみにメルセデス代表のトト・ウォルフが、ニコから引退について聞かされたのは、タイトル獲得の数日後だったそうです。
ウォルフは「全く知らなかった」「彼の引退は我々が想像することのできない出来事だ」としながらも、「その報告を受けたとき、彼の決心は揺るぐものではなかったということがわかった」「彼の明快な決断を聞いて、私は素直に彼の決断を受け入れた」「チームにとってこれは予想外の状況だが、エキサイティングなものでもある」とコメントしています。
普通なら引き止めるくらいのことはすると思うのですが……。

もちろん真相はわかりません。筆者の邪推に過ぎないかもしれません。
しかし巨額のマネーが動くF1では、何が起きてもおかしくないのです。過去には何度かあったのですから。

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最後まで読んでいただきありがとうございます。