ル・マン24時間レースにおけるアウディの18年間 アウディR8編
アウディがWECおよびル・マン24時間レースから撤退します。99年に初めてル・マンに姿を現したアウディは、リーマン・ショックのときでもスポーツカー耐久レースを支え続けてくれた、かけがえのないマニュファクチャラーのひとつでした。アウディの撤退は、WECの今後にも多大な影響を与えることでしょう。
アウディは18年間に及ぶル・マン挑戦において、実に13回の勝利を手にしてきました。2000年以降のアウディは、ル・マンの歴史そのものだったのです。そこで何回かに分けて、アウディが戦ってきたこれまでル・マン24時間レースを振り返ろうと思います。今回はアウディR8編です。
画像の出典: 2000 Le Mans 24 Hours Part 2″>speedhunters.com
1999年 アウディR8R & アウディR8C
トヨタTS020とメルセデス・ベンツCLR、そしてこの年のル・マンを制することとなるBMW・V12LMRの話題でもちきりだった99年の事前予想で、優勝候補にアウディを挙げる人はいませんでした。初参戦だったからです。
アウディの話題といえば、ロードスターとクーペという2種類のプロトタイプ・レーシングカーを2台ずつ持ち込んだことくらいで、全体的な雰囲気としては「初参戦でしょ? 完走目指してがんばってね」という感じでした。
ところがフタを開けてみれば、オープンプロトのアウディ・R8Rが大健闘を見せ、3位・4位でフィニッシュ。参戦初年度で見事表彰台を獲得してみせたのです。
2000〜2005年 アウディ・R8
2000年のル・マン24時間レース
99年の経験を元に、アウディはオープンプロトでの参戦を決定。R8Rを発展させたアウディ・R8を、イタリアのコンストラクター・ダラーラとともに開発、2度めのル・マンに挑みます。
トヨタ、日産、メルセデス、BMWが撤退したため、アウディにとってはチャンスでした。しかしアメリカの巨人・ゼネラル・モーターズ(GM)が、アウディの前に立ちはだかります。GMはキャデラックブランドでル・マンに乗り込んできたのです。
しかしアメリカのコンストラクター・ライリー&スコットが製作した「キャデラック・ノーススターLMP」は、95年から使われていた「ライリー&スコットMkⅢ」がベースの古臭い代物で、アウディの敵ではありませんでした。
この年のル・マンは記録的な猛暑でしたが、3台のアウディを襲ったトラブルは、#7のタイヤバーストと、#9のドライビングミスによるガードレール接触のみ。結局アウディはル・マン初勝利を1-2-3フィニッシュで飾ったのです。
2001年のル・マン24時間レース
4台のR8が参戦しましたが、ワークスアウディは2台のみ。残りは#3 チャンピオンレーシングと#4 ヨハンソンモータースポーツに供給されました。
この年の話題は、71年ぶりに復帰したベントレーでした。ベントレー・EXPスピード8のベースとなったのは、99年のアウディ・R8Cです。
しかしアウディを苦しめたのはベントレーではなく、雨でした。スタート直後から降り始めた豪雨に足を掬われ、数多くのマシンがリタイアに追い込まれます。スタートした48台中、ゴールできたのはわずか20台。完走率は41.7%でした。
それでも2台のワークスアウディは「雨ニモマケズ」1-2フィニッシュ。ベントレーも3位に入り、フォルクスワーゲン・アウディ・グループが表彰台を独占しました。
2002年のル・マン24時間レース
昨年に引き続き4台のR8が参戦しましたが、ワークスは3台体制に戻りました。そして残る1台は#5 チーム郷に委ねられたのです。
3台のワークスアウディは計4回のタイヤバーストに見舞われたものの、結局1-2-3フィニッシュ。チーム郷は冷却水漏れとステアリング系のトラブルで修復に30分を費やしたことが響き、総合7位でレースを終えました。
ベントレーとキャデラックもエントリーしていましたが、アウディの牙城を切り崩すには至らず。4位のベントレーですら、トップから13周遅れでのフィニッシュでした。
2003年のル・マン24時間レース
アウディはワークス活動を休止。R8は#5 チーム郷、#6 チャンピオンレーシング、#10 アウディ・スポート・UKの3チームに託されました。
この年はベントレーが大本命。特に#7 ベントレーにはトム・クリステンセンやリナルド・カペッロという、昨年までワークスアウディをドライブしていた優勝請負人たちが乗り込む必勝体制でした。
レースは特に波乱もなく、#7-#8の順でベントレーが1-2フィニッシュ。3位は#6、#5は表彰台まであと一歩の4位でした。
2004年のル・マン24時間レース
アウディR8は#2 チャンピオンレーシング、#5 チーム郷、#8 アウディ・スポート・UK・チームヴェロックス、#88 アウディ・スポート・UK・チームヴェロックスの4台がエントリーしました。
#2にはJ.J.レートとエマニュエル・ピッロが、#5にはトム・クリステンセンとリナルド・カペッロが加わり、セミワークス体制となっています。ヨースト・レーシングのスタッフも、R8を走らせる各チームに加わっていたようです。
スタート直後は#88-#8-#2-#5のオーダーでトップ4を独占していましたが、あろうことか#8と#2が絡み、ガードレールに接触。2台は大きく順位を下げてしまいます。
これで2位に浮上した#5でしたが、こちらはパンクで後退。#88が圧倒的なリードを築き夜を迎えます。
夜間に波乱はありませんでした。しかし朝になると#88にサスペンショントラブルが発生し、#5がついに逆転。修復に7分30秒を要した#88は、交代したジョニー・ハーバートが#5を猛追しますが、#5の荒聖治は後方との差をコントロールしつつ見事トップチェッカー! 荒は日本人として2人目のル・マンウィナーとなりました。
2005年のル・マン24時間レース
アウディR8は#2 チャンピオンレーシング、#3 チャンピオンレーシング、#4 オレカの3台がエントリー。セミワークス体制なのは#2と#3で、#4はオールフレンチ体制でした。
2005年のル・マンはアウディのどの車が勝つかということよりも、トム・クリステンセンが前人未到の7勝目を達成できるかということに注目が集まっていました。チーム郷とともに上げた勝利により、ジャッキー・イクスのル・マン最多勝記録(6勝)に並んでいたからです。
しかし予選でポールポジションを獲得したのは、#16 ペスカロロでした。2番グリッドも#17 ペスカロロが押さえ、ペスカロロ・ジャッドがフロントローを独占します。
なぜこんなことになったかというと、この年はレギュレーションの関係でターボのアウディR8よりも、NAエンジンのジャッド勢の方がパワーが出ていたからです。
レースでも2台のペスカロロはパワーに物を言わせアウディに先行。グイグイと差を拡げていきます。しかし速さだけでル・マンを制することなどできません。3時間と経たないうちにペスカロロの2台はトラブルで後退し、結局トム・クリステンセンの乗る#3が勝利。長らく破られなかった最多勝記録を更新したのです。
6年間に渡って活躍してきたR8は、6度のル・マンで5勝を上げる快挙を達成し、アウディR10にバトンをつなぎました。
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