レイトンハウスとは何だったのか その3
今回は89〜91年のレイトンハウスを振り返ります。F1での活躍によって世界にその名を轟かせたレイトンハウスでしたが、89年以降は日本の景気と平仄を合わせるように、少しづつその勢いを失っていきます。
この稿はレイトンハウスとは何だったのか その2の続きです。
このシリーズを初めて読まれる方は、レイトンハウスとは何だったのか その1からご覧いただいた方が、より楽しめると思います。
画像の出典: formula.hu
退潮の89年
絶好調だった88年ですが、翌年は悲しい出来事で幕開けとなりました。カペリのマネージャーであるチェーザレ・ガリボルディが、交通事故で亡くなってしまったのです。
陽気なイタリア人を絵に描いたような彼は、カペリのスポンサーとしてF1に参入したレイトンハウスとマーチをつなぐ橋渡し役でしたし、チーム内における潤滑剤でもありました。
彼がどれほど愛されていたかは、89年のマシン名に彼のイニシャル"CG"がついたことからも明らかです。彼の死はレイトンハウス・チームに、少しずつ暗い影を落としていきます。
レイトンハウスによるマーチ買収
89年、レイトンハウスがマーチを買収します。マーチを率いていたロビン・ハードは引退を考えていたようで、赤城がチームを引き受けることになったのです。
ポルシェとの提携話
マーチを買収した赤城は、将来的に自動車メーカーと提携するか、もしくはチームを売却することを模索していたようです。プライベーターとしての限界を感じ始めていたのでしょう。
提携先として浮上したのはポルシェでした。しかし「エンジンがデカすぎる」という理由で、レイトンハウス側から断りを入れたそうです。
浮いたポルシェエンジンを獲得したのは、アロウズを買収したフットワーク(日本の運送会社)でした。しかしV6エンジンを2基つなげたかのようなポルシェV12エンジンに競争力は無く、たった6戦でお役御免となりました。
レイトンハウス・マーチGC891
ガリボルディのためにも結果を残したい89年シーズンでしたが、昨年の好調とは打って変わって、まともにレースできませんでした。何しろ完走したのがたったの7回だったのですから。
マーチ・CG891は、エイドリアン・ニューウェイが軽量・コンパクトを徹底的に追求したマシンでした。そのためにわざわざバンク角76度の狭角V8「ジャッド・EV」を発注したほどです。
しかし前年度のマーチ・881以上にセッティングのスイートスポットが狭く、マシンを手懐けることはついにできませんでした。
この年のカペリは完走わずか2回で、トップ10フィニッシュすらできず。グージェルミンは開幕戦ブラジルで3位表彰台を獲得しますが、これは前年度マシンのマーチ・881で獲得したもの(881は第3戦モナコまで使用)です。つまりGC891は1ポイントも取れなかったのです。
崩壊の90年
失地回復を目指す90年シーズンでしたが、ニューウェイ作のマシンはやはり神経質なままでした。
レイトンハウス・GC901
地上高が変化すると床下のダウンフォース量が変化するため、必然的にスプリングやダンパーを硬くせざるを得ません。それゆえバンピーな路面では車が跳ねてしまい、今度はメカニカルグリップの不足に悩まされるという問題が出てきます。GC901も前年のGC891と同じく、その悪循環から抜け出せずにいました。
しかもニューウェイはGC901の開発時に、誤った数値を風洞に入力するという大失態を犯していたのです。出来上がったマシンは予選通過もままならない有様で、ついにニューウェイは解雇されてしまいました。しかしこのことが後に響いてきます。レーシングカーデザイナーの代わりならいくらでも見つかりますが、天才の代わりは見つけようがないのですから。
でも彼が作り直した"GC901B“だけは、レイトンハウス・チームに残ったのです。
最後の煌めき
このBスペックは大当たりでした。投入初戦となった第7戦フランスGPにおいて、カペリは予選7位、グージェルミンは予選10位と、久々に好ポジションを獲得。決勝ではタイヤ無交換で順位を上げ、なんと1-2体制を築いたのです。
しかし88年の鈴鹿と同様、またしてもプロストが立ちはだかり、レイトンハウスから勝利の栄光をかっさらっていきました。
レイトンハウスは復調したかに思えましたが、路面がスムーズなポール・リカール・サーキットにGC901Bが合っていただけで、その後はグージェルミンが1ポイントを獲得したのみ。結局90年フランスGPでの2位が、レイトンハウスにとって最後の表彰台となったのです。
バブル崩壊
この頃になると、赤城の本業である不動産業も傾き始めていました。土地神話に陰りが見え始めたのです。
首都圏のマンション価格は90年に最高値を付けたあと下落し始め、「土地を買い、その土地を担保に金を借りてまた土地を買う」という勝利の方程式が、ガラガラと音を立てて崩れていきました。89年の大納会で38,915円だった株価は、90年10月1日には一時2万円を割り込みます。バブル崩壊です。
赤城はF1のコストをアパレル事業で補うつもりでいました。レイトンハウスブランドのアパレルは年商20億ほどの規模に成長していましたが、その利益だけでは到底まかないきれません。
そこでアパレル事業を拡大すべく、レイトンハウスはヒューゴ・ボスを買収していたのですが、事業拡大の前に本業が傾いてしまいました。
バブル崩壊後にヒューゴ・ボスを売却する話もあったようですが、失敗。人材面に続き、レイトンハウスは資金面でも岐路に立たされてしまったのです。
転落の91年
91年はデザイナーとしてクリス・マーフィーが加入しましたが、彼のマシンは使い物になりませんでした。新たに搭載したイルモアV10エンジンも信頼性が低く、カペリはリタイアの山を築く羽目になります。
この年はグージェルミンが執念で持ち帰った1ポイントのみに終わりました。コンストラクターズランキングは12位。人材を失い、資金も無くなったレイトンハウスチームを、立て直すのはもはや不可能でした。「萩原光をF1に!」という思いからチームを立ち上げて5年。赤城はいよいよ追い詰められてしまったのです。
赤城はチームの売却先を探し、日本の自動車メーカー(おそらくスズキ)とも接触していたようですが、その最中に赤城は逮捕されてしまいます。富士銀行赤坂支店の不正融資事件に、赤城が関与していたというのです。
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