レイトンハウスとは何だったのか その2
今回は再起の年である1986年、F1デビューイヤーとなった87年、そして躍進した88年のレイトンハウス・レーシングを取り上げます。
この稿はレイトンハウスとは何だったのか その1の続きとなります。
画像の出典: diariomotor.com
再起
チーム存続を決意した赤城明は、レイトンカラーで走るTOM’S 86Cを応援すべくル・マンへ。次いで国際F3000に挑戦中の中嶋悟に会うために、イモラへと向かいます。レイトンハウスは中嶋のサポートもしていたのです。
2人のイタリア人
イモラの国際F3000を勝ったのは、ポールポジションからスタートしたイヴァン・カペリでした。圧倒的な速さで勝利した彼のマシンにはスポンサーが付いておらず、真っ白なカラーリングだったといいます。イタリアF3チャンピオンなのに、資金が無かったのです。
カペリのマネージャーであるチェーザレ・ガリボルディは、カペリをF1デビューさせようとマーチと交渉中でした。速さは十分、あとは資金がなんとかなればというときに、日本のお金持ちが偶然やってきたのです。
カペリと立ち話をする機会を得た赤城が「日本で走る気はあるか?」と尋ねると、ガリボルディは二つ返事で引受けました。マネージャーの彼は日本経由F1行きを狙っていたのでしょう。
86年の国内レース活動
レイトンハウスは全日本F2の活動を一時休止していましたが、第5戦鈴鹿からカペリを擁して復帰します。カペリは期待に答え2度の表彰台(2位1回・3位1回)を獲得しました。
全日本ツーリングカー選手権(JTC)では、萩原光の後を継いだ影山正彦と黒沢元治が奮戦したものの、結局エントリーした全レースでリタイアに終わりました。
ほろ苦いデビュー
レイトンハウスの支援を受けたカペリは、86年の国際F3000でチャンピオンを獲得。文句なしの実績を引っ下げて、翌年ついにF1デビューを果たします。
しかしルーキーを待っていたのは、F3000ベースのマーチ871と、カスタマースペックのフォードDFZ、そして1カー体制という過酷な仕打ちでした。しかしこんな体制でも、カペリはモナコで6位入賞を果たして見せました。
とはいえポイントはモナコの1点だけ。レイトンハウス・マーチ・レーシングチームのF1初年度は、コンストラクターズランキング13位に終わりました。
87年の国内レース活動
F1では惨敗したレイトンハウスですが、国内では星野一義を擁し、全日本F3000と富士グランチャンピオンレースを席巻。チーム結成2年目にして、早くもビッグタイトルを2つ獲得しました。
ル・マンではクレマー・ポルシェをサポート。カペリが走っていた国際F3000チームへのスポンサードも継続しています。そのうえ全日本スポーツカープロトタイプ選手権(JSPC)やJTC、全日本F3にもエントリーしていましたから、主要レースでターコイズブルーのマシンを見ない日は無いほどでした。レイトンハウスはサーキットに欠かせない存在になっていたのです。
鬼才現る
マーチの代表ロビン・ハードとチームマネージャーのイアン・フィリップスは、エイドリアン・ニューウェイに88年用のF1マシンをデザインするよう依頼します。当時27歳のニューウェイは、アメリカでマリオ・アンドレッティのレースエンジニアをしていました。
レイトンハウス・マーチ881
ニューウェイは空力を徹底的に追求したマーチ881を設計しました。881はアンダーフロアとノーズが全体的に持ち上がっており、最初のハイノーズはティレル019ではなくこちらだと言う人もいます。
フロントウィングは当時としては珍しく1枚で成型されており、フラップが極端に細いノーズの下面に食い込むような形で取り付けられていました。
エンジンはV8・自然吸気のジャッドCV。フォードDFZよりもパワフルで軽かったようですが、881のシャシーより幅広だったため、マシン後部は盛り上がった形状になっています。
飛躍の始まり
マウリシオ・グージェルミンをカペリのチームメイトに迎え、体制も強化されたレイトンハウス・マーチでしたが、序盤戦はつまづいてしまいます。881はスピードこそあるのですが、冷却に問題を抱えていたのです。
また、ジャッドCVのザイテック製インジェクションシステムに問題があり、電子系のトラブルが多発。最初の4戦は2台のマシンでのべ5回のリタイアを喫してしまいました。
成績が上向き始めたのは中盤戦です。第5戦カナダでカペリが5位に入ると、第8戦イギリスではグージェルミンが4位、第9戦ドイツではカペリが再び5位、第10戦ハンガリーではグージェルミンが5位と、ターボエンジン勢を切り崩し、ポイントを獲得できるようになってきたのです。
この年はマクラーレン・ホンダが猛威をふるい、フェラーリは大きく差をつけられての2番手。3番手チームはベネトン(デザイナーはロリー・バーン)もしくはロータス・ホンダ(ネルソン・ピケ&中嶋悟)でしたが、レイトンハウスはそれらの強豪と争うまでに成長していました。
栄冠まであと一歩
第11戦ベルギーでは、同じNAエンジン勢のウィリアムズを駆るリカルド・パトレーゼを、カペリが見事な走りでオーバーテイク! レース後2台のベネトンが失格となり、カペリは繰り上げ3位となります。
カペリは第12戦イタリアでも5位となり、勢いを保ったまま第13戦ポルトガルに臨みました。
予選3位からスタートしたカペリは、空力に優れた881を武器に、最強のマクラーレン・ホンダ2台に食らいついていきます。一方、ホンダ・ターボは燃費が厳しく、思うようにペースを上げられません。
とくにセナはペースが上がらず、プロストにかわされた後は徐々に後退。3位カペリとの差はあっという間に無くなってしまいました。
しかしNAのジャッドエンジンで、直線スピードに勝るホンダ・ターボをオーバーテイクするのは至難の業です。セナに頭を抑えられたカペリの背後に、フェラーリやウィリアムズが迫ります。
アイルトン・セナ・ドライビングスクールを早く卒業したいカペリは、22周目のホームストレートでスリップストリームに入り、1コーナーでインに飛び込みオーバーテイク! ようやく2位に浮上しました。
その後カペリは首位プロストとの差を2秒まで縮めますが、水温が上がり始め万事休す。それでも大殊勲の2位ですから、カペリは表彰台で喜びを爆発させました。
鈴鹿
第14戦スペインではグージェルミンがポイントまであと一歩の7位に入ったものの、カペリはリタイアに終わってしまいました。
しかし第15戦日本GPでは、カペリが予選4番手を獲得。好調は持続していたのです。
迎えた決勝ではポールポジションのセナがグリッド上でストールするという波乱が起き、カペリは難なく3位に浮上します。その後6周目の1コーナーでフェラーリのベルガーをパス。フェラーリはターボエンジンですが、レイトンハウスはシケインの通過速度が速く、スリップストリームを使ったカペリの方が直線スピードの伸びが良かったのです。
燃費を気にしつつ走る"プロフェッサー"アラン・プロストは、カペリを引き離すどころか追いつかれ、テール・トゥー・ノーズに持ち込まれてしまいます。
15周目のシケインでは、プロストの前にいた周回遅れの鈴木亜久里がスピン。それに気を取られたのか、あるいはギアトラブルかはわかりませんが、プロストはシケインの立ち上がりでシフトミスしてしまいます。
もたつくプロストのアウトからカペリが並びかけ、コントロールラインの手前で抜き去ったため、#16レイトンハウスはリードラップを記録します。NAエンジン車がラップリーダーとなったのは、1983年以来とのことでした。
しかし敵もさるもの、オーバーテイクボタンを押したプロストは怒涛のホンダパワーでレイトンハウスを抜き返し、1コーナーでカペリの前を抑えます。カペリも必死に食い下がりますが、またもやエンジントラブルが発生。悔しいリタイアとなってしまいました。
カペリは最終戦でも1ポイント(6位)を持ち帰り、飛躍の88年シーズンに華を添えました。レイトンハウスはコンストラクターズランキング6位となり、その名を世界中に知らしめたのです。
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